北向地蔵尊の由来



その昔、片倉地方は、賀保の庄 白松の郷と称し、古記に白松村、後に片倉村と記してあります。
応永年間、室町時代に、南方地頭職の白松小輔兵部和定という人か゜、
片倉の土居という所に住んでいて御土居様と言われかなりの勢力があったといわれます。

片倉の中央にある高台の小迫山に、白松郷の馬乗場があり、
今もその一部を見ることが出来ます。
人皇百代 後小松天皇 称光 後花園 御土御門 後柏原 
後奈良天皇の時代(西暦1400年頃より1550年頃)
の間150年間、この期間は、随分と繁栄したものと思われます。

片倉で一番古い道路(東は新泊 西は川上村に通ずる道)が、片倉の中央部にある
高台の小迫山を登りつめたところに
、お地蔵様があります。御土居様の白松郷馬乗場の真中に鎮座され、
天保11年に建立されたことが記してあります。

昔の人の言い伝えに[小迫山の一角に、瓔珞(ヨウラク)を
つれられたお姫様が甕(カメ)の中に祀られて埋葬され。
そのお姫様ををお守りするために、お地蔵様が建立されました]と言われてございます。

北向地蔵尊と名称が名付けられたのは、明治時代の日露戦争当時、
厚狭方面に住んでいた人が医師に見捨てられ困っていたところ
「片倉の高台に、北に向いたお地蔵様がありますので
そのお地蔵様に祈願すれば全快は疑いなし」と法人に教えられ、
地元の人に「願いかけ」の代参を頼まれました。
満願の日、全快されたので、お礼にと参詣されるため、
お地蔵様に陣傘をお供えされたそうです。
その後、重病におちいった山口の人が、やはり法人に教えられ、お地蔵様に日参され、満願の日には
全快されました。お礼にこのお方は、陣羽織をお着かせしてお供えされました。
俄(にわか)に陣傘、陣羽織の士となられ、この頃から[片倉の北に向いたお地蔵様]と言って
尋ねて来られる信者の方が多くなりました。
遂には[北向地蔵尊]という名称が付けられたのであります。
その後、御利益を授かる人たちが多くなり、何でもお祈りすれば
必ず叶えて頂ける霊験あらたかな、お地蔵様で知られ、
近郷はもちろんのこと、近年では全国に宇部の名仏として
[片倉のお地蔵様]と呼ばれて有名になりました。
お地蔵様北西には、土居という屋号もあり数個の墓らしい
ものも残っています。明治の末頃まで、雪舟の築いた
立派な庭もありましたが、当時、宇部方面のお金持ちに
買い取られて、今は畠として残っています。
現在、本覚寺には、雪舟の庭として、そのまま残り、モッコクの大木は、文化財 
天然記念物として有名であります。
本覚寺の下方には井戸があり[お方川]と称して、白松郷のお姫様の化粧用に利用されて使われた
ところとして有名で今もその面影が見られます。
その昔には、緒方の勢力争いが激しくなって、奈良天皇の時代に至り、
大内義隆はその臣 陶晴賢に殺害され、弘冶三年には大内義長が、毛利元就によって、山口の地に攻められ滅ばされるなど、片倉の豪族たちもこのような戦いに巻き込まれのか知る由もありませんが、いつ如何にして果てしものか、
知る人もないありさまとなりました。
[北向地蔵尊]は、これらの人たちとの、
つながりがありそうに思われるのであります。

建立以来160年という、まだ浅く短い歴史でありますが、昔から、腰から下の病気に霊験があるといわれておりますので多くの信者がお詣りされます。近年では、進学、縁結びなど、善男善女のあらゆる願いごとを、お聞きいただけれる有り難い地蔵様として、遠く県外からたくさんの方がお参詣をされています。
縁日(毎月24日)には、参拝者は本堂前に炊かれてかがり火に線香
くべて、香煙に願いを託したあと堂内に入り、目の悪い人は地蔵様の
目を、腰を病んだ人は腰をさすり、一心に拝んでおられる姿をお見うけられます。

境内から参道へ長蛇の列が続きますが、参道には地元の農家の人たちが作られた、新鮮な野菜や漬け物などの無人販売所が数ヶ所に設置されてあり、道行く人を楽しませいます雰囲気は、片倉の地蔵様ならではの、独特の田園風景であり、賑やかに並ぶ露店と共に人気を集めております。
これからも、子々孫々に至るまで、有り難い御利益を授かりつつ益々御発仰を信ずるものであります。